10周年記念講演:小椋 佳氏
   演題:「創造の時代」

小椋圭講演会 演題「創造の時」

 小椋圭でございます、よろしくお願いいたします。昨年は私の作っておりますミュージカル「アルゴ」を中津平成RC様のお力で、公演の実現できましてまことにありがとうございました。

 今日は歌っちゃいけない、話だけしろということで甚だ困っております。公演というのは普通こういう高い所で先生と呼ばれるような方が出てきて皆様方の明日からの暮らしのお役にたてる話をするのが相場ではありますが、わたくしはただ今ご紹介いただきましたとおり学生生徒をやらせて頂いております、先生ではございませんので、また本日は私よりも人生の先輩も大勢いらっしゃいます。とてもとても偉そうな話もできるはずもございません。言い訳ばかりになりますが望外の多忙な日々を過ごしています。つい先日までアメリカに2週間ほどテレビロケの仕事で行って帰って来たばかりで…。ただ今私は年間3本の芝居を作らせて頂いておりまして、そのうちの1本が今年13年目を迎え、昨年もご当地で公演させていただいた「アルゴ」というお芝居でございますが、その他2本を作らせてもらってますが、先ほどご紹介頂いたとおり大学院にも通っており現在修士課程の2年生で今年は修士論文を書かなくてはいけないという状況でとても時間の足りない日々をおくっておりまして…。何が言いたいかと申しますと、今日のこの公演会の準備を何もしてこなかったと言うことが言いたかった訳でございまして…。(笑)思いつくまま、通常考えております事等の一端をお話してお時間を埋めさせていただきたいと思います。

 まずは自己紹介代わりに生い立ちやら、これまでのことやらを若干お話させて頂きとうございます。26歳のときに初めて音楽を発表する場を頂戴して以来30年間程、マーケットに阿ること、媚びる必要もなく好き勝手に作詞をしたり作曲をしたりできたことが非常に不思議な気がいたします。生い立ちを考えますと、自分が音楽に関わってそれが自分の生活の重要な部分になるということは、まったく想像外でございました。
 青春時代の話を若干させていただきますと、私は歌舞音曲の世界よりもむしろ、体育会系の男でございました。小学校時代は近隣の野球チームに入りまして、女々しかった少年が若干雄々しくなることができました。と申しますのは、私の実家は東京上野の下町で父母が料亭を営んでおりまして、上姉2人の長男として生まれました。当時典型的な、かかあ殿下の家庭であります。家の事は全部母親が仕切っているという状態で、二人の姉もスポーツクラブに入るとすぐキャプテンになってしまうような元気な姉で、母そのものが典型的な江戸前の女性でございます。私は男として生まれたのですが、どうも女々しく育ったようでとても泣き虫の子でしたが、野球を覚えて小学校4年の頃からようやっと男らしい自信を持つようになりました。小学校6年の時にはピッチャーに抜擢されまして、東京都のブロックリーグ戦第1回戦で先発投手に起用されまた。非常に誇らしい思いでマウンドに上ったのでございますが、なんとその試合では、1ゲーム7インニング、21個のアウトのうち19個を三振に斬って落としまして、翌日の地区中学校新聞に、「怪童あらわる」と言う記事で登場しました。それまでただ女々しい息子と思っていた母親にとっては初めて誇らしい事件が起こったのです。彼女は新聞を買い占めまして町内に配って歩いたという画期的な事件でありました。(笑)その時点で、私の人生計画は非常に簡単で、明日は甲子園、明後日は巨人軍というものでしたが、第2戦、打ち込まれまして6回持たずに降板、3戦目は2イニング持たずで、監督に聞いたところ1戦目の相手が弱すぎただけと言われ4戦目にはとうとうキャッチャーに下ろされ、野球は挫折してしまいました。
 それでもやはりスポーツ少年でありましたんでしょう、中学、高校はバスケットに専念いたしました。東京都大会では準々決勝にまでしょっちゅう出る実力が付きまして、自信を持ちました。大学もバスケットボールの選手として身を立てよう、青春を過ごそうと思ったんですが、大学がちょっと待てと言ったもので、僕の場合1年待ってから入りました。(笑)しかし、その待っている間に縦にすくすく伸びた肉体が前と横にも膨らんでしまい、機敏な運動のできない体になってしまい、バスケットも断念せざるを得なくなり、詐取的に入ったのがボート部、唯一運動神経のいらない、ただ頑張ればいい特殊な運動部でございます。(笑)ところ、その大学では伝統のあったクラブで、特殊扱いでした。戸田の合宿所で朝6時から日没まで毎日練習、学校には木曜の午後のみ行けばよい不思議なクラブでありました。当然勉強は不足してしまいます。ただし、当然大学生ですから進級しなければなりません。そのため期末試験だけは受けに行きます。当然の事ながら成績は甚だしいものでありました。優は体育実技と一般教養科目の生物(教授がボート部の部長)二つだけでした。
 このボート部に楽しみ事がありまして、その一つが京都大学との対抗戦です。1年おきに京都と東京で開催されます。私が1年生の時は京都に行きました。琵琶湖の瀬田で行われたのですが、前日の夕刻に前夜祭を催してくれました。大学生ですが、若干の酒を酌み交わし、自己紹介をし合い、歓談…、頃合を見て京都大学の諸君が歓迎に京都大学の伝統の歌を歌ってくれました。皆さんもご存知の琵琶湖就航の歌です。30名のボート部の部員が朗々と歌うとすばらしい響きでございます。美しい日本語の詩が完成度高く出来上がっています。それにきれいなメロディーにのっています。私は感激いたしました。しかし感心ばかりしてはいられません。その後は我々の大学ボート部の歌をお返しに歌わざるをえないのです。「♪春は〜、♪春は〜、桜咲く向島〜♪、やっこらせ!」歌ってていやになります。本番の対抗戦の前に知的勝負に完敗した感じです。(笑)身のうちにいい歌を持つのは大切なことだと痛感したわけでございます。

 そんな自分が卒業して音楽に絡むようになったのは不思議だなと思います。もちろん小さい頃から歌は好きではございました。ただ人前で歌うようになるなどとは思ってもいませんでした。学校の行きかえり、お風呂の中等しょっちゅう歌を口ずさんでおりました。ルーツは父母であったように思えます。父は非常に地味な男性で、謹厳実直、誠実そのもの、酒の一滴も飲めない男で、遊び事、賭け事は一切できない、苦労性、心配性、真面目一方でした。この人こそ銀行員になればよかったのにと思います。この父の特技が琵琶でした。二十歳前後には師範をして生計をたてていた時代があったほどです。私が生まれてからは人前では琵琶は一切弾かないようになっておりました。言いかえれば父は恥を知る男だったんだろうと思います。当時、琵琶の流行っていた時代はすでに終わっていました。父はもうこんなものは人に聞かせるものではないと謙虚に言ってました。夜更けに座敷の奥で父が一人で奏でる琵琶の音色を障子越しに聞いてまして、私には幼いながらも、それはすばらし旋律であり、すばらしい詩でありました。私にとって、父はすばらしい演奏家であり歌い手でありました。母は父とはまったく正反対の性格で、何でも出たがりの明るいい江戸っ子そのものでありました。この二人の性格どちらとも受け継いだのが、20代の半ば頃から現実化した私の音楽暮らしを方向付けたのかもしれません。

 さて、私は申し上げましたとおり体育会系の男でありましたが、一方で高校2年生頃から、深刻に物事を考え込んでしまう神経質な哲学少年でもありました。人生とは、神とは、真理とはなんだとこだわり、体と精神がバラバラの一種のノイローゼ状態で大学生活も送ったわけでございます。就職活動の時期になってもこの問題は一向に解決しません。自分を殺す事もできないなら生き続けるぞ、と決心したときに引っ掛かった言葉が「創造」でございます。言い換えますと「他でもないこの自分が生きている証を作業とする」ということです。この創造の場はサラリーマンであれ、主婦であれいずれにも有るわけでありますが、当時学生の私は狭い了見で、創造の場は芸術の世界にしかないと思い込んでしまいました。大学の後半には小説、美術、芝居、音楽とあらゆる芸術に首を突っ込み、また知り合いも芸術家ないし芸術家の卵と、と言うように広げてまいりました。しかしながら芸術の専門の人間を知るほどに自分の無力さを痛感し、アウトサイダーとしての芸術家を職業にするのはとても無理だと思って参りました。
 私は時代の典型的なインサイダー人間となりつつも併せてかつ創造的な作業を自分の身に持つという事ができないだろうかと思うようになり、時代の典型的なサンプルの職業の一つとして銀行員を選びました。
 本業の銀行員をやりながらも、劇を仲間と一緒に発表したり、舞台台本を書いてみたり、さまざまな思考錯誤を繰返しました。そんな中で寺山シュウジさんとの出会いがありました。寺山さんとは学生時代から面識があったのですが、社会人になって半年目位に彼と和田モコトさんの作った「初恋地獄編」というアンダーグラウンドぽいLPに、無名の若者ということで2曲、歌で参加させていただきました。

 大して売れなかったこのレコードをたまたま某レコード会社の一番若いディレクターが聞き、私の歌を気に入ってくれまして、8曲レコーディングを終えた時点で銀行よりの派遣でシカゴのノースウェスタン大学院に経営学を勉強しに行かなければならなくなりました。このデモテープはしばらくお蔵入りをしていたわけでありますが、またたまたま映画監督の森谷シロウさんがこのテープを聞き、翌年正月公開の映画のバックミュージックに採用の決定が下されまして、同時にLPも発売のはこびとなりました。これが私の処女作「青春」という42分のアルバムです。
このLPはじわじわと評判を頂いて売れ出してきまして、レコード会社も喜ぶほどの枚数になり、留学中の私の元にレコード会社から直接、帰国までに20数曲歌を作ってきてくれ、帰国早々に2枚目のLPのレコーディングに入ってくれとの連絡…、これが始まりでありました。それからは好き勝手な歌を作り、年1枚か2枚のLPを発表させていただくという、奇しくも学生時代申していたこと(何らかの形で創造的作業をし、表現者として銀行員の傍ら生きる)が幸い、運と人とのめぐり合わせで実現する行き方となりました。

 銀行員として四半世紀が過ぎた40代半ばにそろそろかな?という気を強くして参りました。平家物語の最後の段に「見るべきもののことは見つ」という章があります。その言葉を私は感じました。さらにここに居留まるは何か、の疑問が沸いてきました。今後、人生のエネルギーの大半をどういう事にこのまま使っていくのだろうか。組織内にい続けるのは私の生き方ではない。未練を残しつつも今から6年前、49歳の時に退職を決意いたした訳でございます。職を辞してからは、ゆったりとした暮らしを作り、じっくり考え事をする生活に入ろうと思っておりました。じっくりと考え事をする場に大学を貰おうということにしたわけです。

 さて、ちょっと話題を転換させて頂きとうございます。今大学に、たまたま籍を置かせて頂いておりますが、教育を鑑みるに、小中高、大学も含めまして、日本では何を教え、何を教わっているかと言う問題。私なりに一言で言わせて頂きますとそれは、答えの用意されている問題を解く事、それに一生懸命になっていると言えます。昨今では各地をおじゃまいたしますと、生涯教育がどこでも盛んでらっしゃいます、それはいいことだと思います。しかし若干の教養を膨らますとか、趣味を一つ二つ増やす事だとすれば、その限りでは、真の学びにも至ってないな、と言う感じがいたします。真の学びといえば、古の時代から賢い人々が人生は一生学びだと言い残してくれてます。そこで言っている学びの本当の意味は何でしょう、それは生涯教育のようなものでもないし、答えの用意されている問題を解くだけの学びでもないはずです。学びの語源は「まねび」だそうであります。答えの用意されている問題を解いているのはまだ「まねび」の段階、真の学びは「まだ答えの用意されていない問題を、それぞれがそれぞれに解きほぐすと言う挑み」だと言う気がいたします。
 まだ答えの用意されていない問題を、それぞれがそれぞれに解きほぐすと言う事を別の言い方で表現させていただきます。これは日本の現状況についてであります。経済的な不況とは別に、もっと底だまりの混迷の状態に入っているとしばらく前より言われるようになりました。経済不況も確かに深刻な問題ではありますが、それ以上に問題なのは、今の日本人の心理の混迷状況です。これは確かだろうと思います。日本と言う国、日本の個々人が何を目指し、目標にし、何に方向性を持って生きて行けばいいのだろう、価値の基準は何なのだろう…?それを正面斬ってきちんと議論できる人間がいなくなった。
 私なりに考えると、この混迷が到来した原因は二つの大きな流れが同時に終焉を迎えつつある事によると思います。一つの流れは明治以来の西欧諸外国の先進技術、制度の「まね」による日本の近代化の成功。しかしそれ以来、日本の文化の主役は「まね」になってしまいました。昨今も同じではありますが、だんだん気がついてまいりました。「まね」は評価されないぞ、尊厳も与えられないぞ、経済活動においても「まね」でやってるうちはいつか売れなくなるぞと。まね文化は終焉せざるを得なくなりました。
 もう一つの大きな流れの崩壊は戦後の早期経済復興のために取られたシステムです。それは組織社会、管理社会の進行でありました。終身雇用と、年功序列はその中で取られた日本独特の制度です。このシステムはこの50年間大変な成功を収めました。しかしながらこのシステムも現在曲がり角を迎えつつあります。個々人は自己選択の人生を歩まざるを得なくなってきたのです。

さあしかし、この二つの大きな流れの終焉をよく考えれば、そこにはもう次の世代に与えるべきキーワードが浮かんできます。「生きて行くこと」を前提に「生きてある」事をそれぞれがそれぞれにとらまえる、これこそが本来の人間らしい生き方なのではないでしょうか、あてがえぐちの価値構造に身を染めて、それぞれが個を持たずに生きてしまうのではなく、答えの用意されていない問題をそれぞれがそれぞれに解きほぐす、真似でなく自ら産み落とす…、まさに「創造」であります。21世紀の日本人、社会、経済はまぎれも無く「創造」がキーワードになると思っております。

小難しい事をいろいろ申しましたが、感覚的にすぐにお分かりいたただける言葉を一つご紹介したいと思います。我々が行為行動することを「振る舞う」と言いますが、これは古い大和言葉での「振り」と「舞い」が合わさった物であります。では「振り」とはなんでしょう、人の振り見て吾が振り直せと言いますが、他人の所作、行為行動を指すものです。我々は自分を取り巻くさまざまな社会環境に応じた行動パターンを自然と身につけてまいります。これは共同のコミュニケーション基盤を持つということについて大変大切なことであります。しかし気がつかなければならないことは、「振り」と言うのはもともと自分のものではないと言うことです。しかも一定の「振り」には一定の価値観が付いてまいります。
話は突然西洋に飛びますが、フランスにバレリーと言う思想家がおりました。彼の公演演目に「歩行とダンス」と言うのがあります。歩行は日常生活の中において、〜に行く為、〜に会うためと明確な目的が設定されていることが多ございます。意味のわかりやすい、評価のされ易い行為です。一方ダンスはどうでしょう。踊ったからって何になるんだと言われかねない行為です。しかしバレリーが言いたかったのはむしろこのダンスでありましょう。ダンスこそ、「他でもないこの私」が始めて表れる場なんです。言い換えますとダンスは無目的のようでいて実は、行為そのものが自己目的化した価値を持っているもので、人間が行為行動をしていると言えるのは、歩くだけではだめなんですよ、踊れもしなければいけないんですよと彼は言いたかったんでしょう。どっちが欠けていてもだめで、両方ができてこそ、人間が人間として行為してるといえるのです。 西洋の歴史に負う必要はありません。古の日本人はまさにそのことをたった一言で言い残してくれています。それが「振る舞い」であります。人間が行為行動をしていると言うことは振りだけではだめなんだ、舞えているかが問題です。それがあなた自身ですか?あなたの自己表現ですか?と。
 明治以降、戦後の特殊な社会の中で私たちはもしかして「振り」だけで生きていると思い込んでないでしょうか。そろそろ私たちひとりひとりが舞えているのか、振るまいができているのかと言う事に立ち返って日常の行動を挑戦してみる必要があるのかなと思います。

ここで 創造と言う意味においての私の創作活動について若干、お話させていただきます。昨年ご当地で公演をさせていただきました「アルゴ」も思いは同じ所からの発想でございます。20年ほど前から全身表現としての音楽、つまり音楽劇、音楽芝居の世界に感心を深めていくようになりました。日本で多く行われてますのはオペラ、オペレッタ、ミュージカルであります。中には素晴らしいものも数多くございます。しかし、これらも気がついて見ますと、残念ながら「真似」の要素が基本にあります。では日本人は自らの想像力で音楽舞台を作れないのか、能力はないのか。とんでもない話で、歴史の事実として能楽があります。江戸時代には歌舞伎がございます。歌舞伎の語源はご存知のとおり「かぶく」であり、傾いた奴らと言う軽蔑の意味であります。しかしその者達が努力を重ね、いい作品を作っていくうちにやがては社会に認められ、漢字を宛がえた「歌舞伎」という単語になったのです。同じ事をなぜ明治以降120年日本人はできなくなったのでしょう。そんな思いから20年ほど前にそれまでの観客として見ている側に我慢できなくなって、生産者側に足を踏み入れました。
 「アルゴ」はその一端でございます。既存の西洋の歌い方、踊り方に染まってない純粋無垢な生命力あふれる子供たちを演技者として素材として使わせて頂き、私達大人が申し上げた意味でのオリジナルな創造的な音楽舞台を作ろうとしているものです。
もう一つお話をさせていただきます。より芸としての完成度の高いオリジナルな歌唱舞台をスタートさせたいという思いで、3年ほど前から、「イッキュウ」というミュージカルを作りました。この舞台では日本の伝統歌唱(小唄、長唄、端歌、俗曲、浄瑠璃、義太夫、民謡、浪花節…)を土台にし、新しい物の開発に挑むと言う柔軟性のある、その達人たちに集まっていただきました。各ジャンルは違えども、達人たちの混交融合の中から生み出された、新しい、日本語で表現する歌唱舞台であります。2時間半、48曲の試みであります。何かの機会がございましたらご覧頂きたいと思います。

時間も過ぎて参りました。最後に、今日は高いところに上らせていただいた関係上、ちょっと生意気を申し上げたかもしれません。
二つの大きな流れと同時に日本には今混迷期が来ている、しかしいずれ答えは見えている、それは「創造的な社会」だろう。その「創造」というのは悪戯に新しがったり、奇妙奇天烈ではありません。そこには橋渡しとして「個が個である」と言う現象を作らねばなりません。「個が個である」と言うプロセスとして「答えの用意されていない問題をそれぞれがそれぞれに解きほぐす」あるいは「生きてある」ということをとらまえると、お話申し上げました。これを今日は別に「振る舞い」という言葉を引き合いに出してご説明申し上げたので、最後にあとひとつふたつ大和言葉をご紹介させて頂いて、そのご呈示とさせていただきたいと思います。
「断る」という言葉がございます。日本には和の美徳がありますが、なかには履き違えた紛い物の和も多くあるように思えます。これはちょっと置いておきまして、和の対極にあります「断る」を生活の主眼に大人が暮らしてみたらどうでしょうかという提案でございます。「断る」も実は古い大和言葉の、「こと」と「わる」の合わさりです。物事を分ける、物事を区別して考えると言うのが、「断る」、「断り」のそもそもであります。「ことわり」というと、もう一つ、「理」という漢字一文字を思い浮かべますが、中国で古くは玉偏に里と書きました。玉は何でも無い石ころを磨き上げて宝石としたもの、里は荒地を人間が住まえる価値のある土地としたものです。何でも無いものと特別に価値付けしたものとを区別して考えるという道理が浮かび上がってまいります。それが本来のことわりでございます。断絶の断はもともと理論の理に結びついている言葉でございます。 もう一つ。同じような言葉でございますが。「異なる」がございます。これも古い大和言葉で、「こと」と「なる」が合わさって出来た言葉です。物事が成る、物事が成立すると言うことが本来の語源であります。古の人々はそう言う意味では物事が一緒になる事ではなくて、むしろ区別して、違いをはっきりさせることが物事の成立なんだという英知を持ってた、ということになります。私達は日常生活のなかで「断る」事を覚え、「異なる」事を明確にし、自らの「理」を構築する。大人がそれぞれ、そうなれてこそ初めて「創造の扉」を叩ける日本人になるということが言えるのだと思います。これは言葉遊びになってしまいますが期せずして、「異なり」は「個と成る」とも書き変えられます、これが我々日本人のキーワード、秘密(本当の大人になるための、個々人が個々人となるための、創造のとびらを叩けるようになるための)であろうと思います。
どんな時代においても、若者や幼子たちは大人の写し鏡であります。我々大人が怠惰な日常を凡々と暮らし21世紀が来、突然今の若者が成長して創造的な人間に成るなどと期待するのは、まず、甘えというか、無理な事です、我々大人こそ日常生活の中にあって答えの用意されて無い問題を個々に解きほぐし、生きてある事を生きていることと別にとらまえる、それぞれがそれぞれの理を構築する、そのことの挑みを始めるべき日々が、今まさに来ている、そんな思いがします。

長時間になりました。ご清聴、ありがとうございました。