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第668回例会 平成15年9月18日(木)
 蔵工房  - 03/10/5(日) 11:59 -

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   第668回例会 平成15年9月18日(木)

◎本日の例会プログラム    会員卓話 釜山商業研修の報告(韓国の現状)
        田原和己会員

    ○次回例会プログラム    観月例会 18時30分より三口河川敷にて

前回(667回例会)の記録 平成15年9月11日(木)

■ビジター
 中津RC 神本博志君

■出席報告
 会員数    32名
 免除者数    1名
 対象者数    31名
 本日出席者    26名
 欠席者数    5名
 出席率        83.87%

■前々回出席報告の修正
 前々回欠席者    06名
 メイクアップ    04名
 欠 席 者    02名
 修正出席率 81.25%→93.75%

●メイクアップ
 土居、辛嶋、下村、矢頭(中津RC)
 
●欠席者
 今吉、田原

ロータリーソング
我等の生業

会長の時間
会長 小川陽一郎
 今月は、新世代月間です。この月間の標語は「各ロータリアンは青少年の模範」です。よろしくお願いします。
 6日土曜日に、阿蘇内牧で地区の社会奉仕セミナーがありました。私と松本幹事、永松さんとで行ってきました。この機会に、しっかり研修していただき、クラブに新しい社会奉仕の風を起こしてほしいなと思っていた社会奉仕委員長が急病で参加できず残念でした。
 基調講演は前岡パストガバナーが「世界の社会奉仕は今」というテーマで行いました。
 内容は、先日のロータリー夜学での話と同じで、RIの関心は今、世界の貧困、飢餓に向いているというものでした。
 あと、対談「世界の経済と社会奉仕」という題で、元肥後銀行頭取 長野吉彰氏による水の話、前大分銀行頭取 安藤昭三氏による日本経済の話があり、最後にせっかく阿蘇に来たのだからと、一の宮町文化財保護委員会の嘉悦渉氏による「阿蘇神社の由来」の講演がありました。
 セミナーというと、こう考えた方がいいよ、とか、こうしたほうがいいよとか、もっと具体的な提案があるようなイメージが私にはあるのですが、ロータリーのセミナーにはそれがあまり感じられません。奉仕する人たちの集まりである各クラブを最大限尊重するというロータリーの精神によるものだと思いますが、ちょっと物足らなさを感じるときもあります。

幹事報告
幹事 松本 幹夫
●例会変更
杵築RC 9月18日(木)観月例会のため、同日18:00より住吉浜リゾートパーク
●週報受理
熊本平成RC、宇佐RC
●幹事報告
1.県北ハーモニーフェスティバルの案内。
2.地区大会の出欠表を回します。
3.10月2日(木)6:30よりクラブ協議会をオリエンタルホテルで行います。
4.本日理事役員会を例会終了後に行います。

委員会報告
○ガバナー補佐支援委員会 岡野委員長
永松ガバナー補佐へ支援委員会より支援金をお渡しします。頑張って下さい。
○国際奉仕委員会 辛嶋委員長
GSE受け入れに伴う中津平成RCホームステイ募集のお願い。
11/17〜11/18:2泊 2家庭お願いします。
11/19:1泊で福岡へ小旅行予定

ニコニコボックス
担当 会員選考委員会
○中津RC 神本会員 今日の昼食はとても美味しかったです。我ら阪神ファンにとっては優勝目前で大変めでたく思います。ローターアクトをよろしくお願いします。
○小川会長 今度の土曜日のセミナーと人吉のセミナーを楽しみにしています。
○梶原会員 本日のゲスト近砂さんは歴史に詳しく、祇園祭でもお世話になっています。
○池中会員 ダイエーの応援観戦に行ってきました。
○辛嶋会員 先々週88歳になる父が、胸を苦しみ救急車で病院に運ばれ心配しましたが、無事回復へ向かい安心しました。

ゲスト卓話
「中津の歴史3.」
近砂 敦 氏
耶馬溪誕生
 東大の理学博士の脇水先生の説によりますと、大昔に3回ほどの火山の爆発がありました。最初の爆発は「耶馬溪火山」といい、新生代第3期の終わりごろです。
 この第3期というのは、十万年から3千万年前のころです。爬虫類の全盛時代で、もちろん人類は誕生していません。この爆発により英彦山から犬ケ岳、桧原山にかけての稜線ができました。噴火口は樋桶山という山で、大字樋山路と大野の間にあり、火の樋が樋桶になったと言われます。岩の多い山で、だれ1人登ったことがない岩山もあると伝えられています。
 瀬戸内海は有明海にぬけて九州は南北2つの島であり耶馬溪周辺は海であったが、この爆発で九州が1つになりました。それは深成岩である花崗岩の連続でわかり、さらに金吉や山移芝石芝石辺から貝殻とか、珪藻などが出土しており、海だったことがわかります。
 次が新耶馬溪溶岩です。これはどこから噴きでたかはっきりしていません。耶馬溪町の深耶馬溪から山移、下郷にかけて、だいたい標高5百メートルくらいの台地状にとっぽり埋まってしまいます。これにより山国川は南に流れていたが流水道を塞がれたため、山国町守実辺から急に北に流れを変えて周防灘に注ぐようになりました。
 最後が阿蘇火山溶岩の襲来です。この溶岩は暗黒色で山国川を流れに沿い埋めました。
 あまり高くない十メートルぐらいでしたから、ほとんど浸蝕されて流されています。平田城や羅漢寺の近くでその痕跡を認めることができる程度です。
 以上3回の爆発により耶馬溪の景観が作られたのですが、岩の固さによって違いがでてきます。つまり、耶馬溪火山溶岩によるものは集塊岩と言い、非常に堅いところと柔らかいところが混ざっていますので、浸蝕されやすく風化しやすく、洞窟や洞門が出来やすく、青の洞門の競秀峰のような景観となっています。
 ところが新耶馬溪溶岩の方はとてもきめ細かな成分でできていますから、なかなか浸蝕されにくく風化しにくく、凹凸も少なく大谷渓谷や岳切渓谷などのような一枚岩の渓谷となっている所が多い。青の洞門がこの新耶馬溪溶岩であったら禪海和尚さんもさぞかし大変だったろうと言われる学者もいます。
 しかし八面山とか木の子岳、鹿嵐山あたりは耶馬溪火山の前にできた瀬戸内海系の火山でありますから、形が釣鐘状であり、全く違っています。
 町内は大別して山国川の東側は新耶馬溪溶岩台地が大半を占め、渓谷の流れも緩やかで水中コース等ができ、樹木も檪などの落葉樹が多く、新緑と紅葉が美しい。
 西側は耶馬溪火山で作られた山で険しく渓谷の流れも急で滝や深い渓谷が多い。樹木も杉桧の常緑樹であり、これが自然の作った耶馬溪の景勝の違いです。

地名の由来
 山国川という名称は古くは「御木川」と呼ばれていました。これは「みき」とも呼びますし「みけ」とも呼びます。「木」は「毛」に通じます。この「毛」というのは植物が繁るという意味であり、山には木がたくさん茂り、平地にはいろんな草、農産物ができるということを意味しています。その土地が大変肥沃であることを表しているわけです。この「御木(おんき)」という名前が最初についたのは神話まで遡ります。耶馬溪町史には神武天皇が宇佐に立寄ったとき、この川の上流には良い杉の木ができるから、その木を切って、奈良の橿原の宮に持って行けと言われた事から、天皇の木を運ぶ川と言う意味で、御木川と言ったのだとされています。しかし津民の山崎先生は奈良まで持って行くと言うのは少しオーバーであり、宇佐神宮もあるし、中津の相原には国分寺、さらに吉富の垂水にもお寺があったのだからそれらの神社や寺の用材にあてたのではないかと言われています。
 その後この御木が三毛という表現になってきましたので、御木川も三毛川というようになります。この三毛という呼称は、大化の改新のころの文書、さらには、太宰府の長谷寺の鐘にも見る事ができます。
 現在の山国川の名称は下毛郡は昔、七郷ありその内、山国郷は南部の山間地であった。ここから流れた川であるから山国川名がついたものと思われます。
 さてこの「毛」と表される地域が山国川を境に上毛「こうげ」と下毛と分かれます。単に京都に近い方が「上」の字や「前」の字を冠したことのようです。上毛とは今の築上郡のことで、明治29年に築城郡と上毛郡が合併して築上郡となりました。
 豊前、豊後に共通する「豊」の字についても、やはり神武天皇が宇佐に立寄った時に献上された海、山の幸に感じ入り、汝の国は大変食物のよく取れる所だから以後「豊」の国と称しなさい、と言われたことからだとされています。その後、京都に近い方が豊前、遠いほうが豊後と分かれたようです。
 耶馬溪の名稱については文政元年(1818年)頼山陽先生が入渓され、名付の親になっています。一般的にはこれまで、山国川上流一帯は「山国谷」と言っていたので先生は「山」と「耶馬」に「谷」を「溪」と雅名化したんだ、と言われていますが、本当の事は山陽先生に聞かねば分からぬ事です。

頼山陽と耶馬溪
 文政元年(1818年)12月5日、頼山陽先生は日田より、山国谷に入って来ました。
 先生は広島の人で芸州藩の儒学の先生ですが国学にもすぐれていました。先生の著書「日本外史」は明治維新の大激文となりました。吉田松陰と一緒に処刑された、頼三樹三郎は先生の三男です。先生はあくまで学者であって、志士として活動はしていません。学者としてだけでなく当代一流の文化人でした。
 先生がこちらに来たのは39歳のときです。父親の春水が亡くなり3年間喪があけてから、九州の方に遊学に行こうと、まず長崎で70日ほど逗留し、当時西洋文明はすべて長崎という時代でしたから十分に文化を吸収し熊本、天草、宮崎、鹿児島と回り竹田に入ります、竹田の田能村竹田先生、日出の帆足万里先生とが日田の広瀬淡窓先生と会って、広島に帰るべく日田から急ぎ中津に向かいます。そうして通りがかったのが耶馬溪です。12月5日一ツ戸についたときはすでに夕方になっていました。
 ここの集落は当時宿場になっていて、宿屋が5軒ほどありました。その夜はここに泊まり、次の日は中津につこうと言う行程です。そして今の耶馬溪町役場の少し上流にあったと言う孤店で昼食を取ります。ちょうど猟師が猪をとってきたのでそれを肴にして腰のひょうたんを傾け一杯やります。
 孤店の主人や猟師の人情にほだされ、対岸の景色に見入り写生をし「耶馬溪山天下になし」と詩のメモを取り、当りの景色にも心を残し急ぎ足で夕方中津の正行寺に着き、雲華和尚を尋ねます。先生と日田の淡窓先生、さらにこの和尚はいずれも福岡の亀井雲斉という先生の門下生です。その夜語るうちに耶馬溪の景色の話になりましたが、柿坂ぐらいで感心している様ではと、次の日は和尚が先生を案内することになり、羅漢寺に連れて行きましたが、先生は一つも褒めないどころか機嫌を悪くし、先生は、景色と言うものは岩山に木が生え茂り、水の流れがなければならない。さらに住んでいる人々の人情と言うものが大事だ。ここはたしかに景色は良いが水がかけている、との意見でした。それではと翌日再び山国川を遡り、その日は樋山路の浄眞寺に泊まり、雲華和尚と先生とこの寺の善慶上人とで詩を作り語り合い一夜を明かしました。次の日朝は雨で急ぎ中津正行寺に帰り数日滞在して広島への帰途につきました。先生は耶馬溪町に2泊し、3回通られました。広島へ帰られてから、耶馬溪の景勝をまとめ6尺に及ぶ山水画と1244字の詩文による「耶馬溪図巻記」と「八絶句」により、全国に紹介してくだされ「耶馬溪」の名づけ親として尊敬されています。町では毎年春「山陽祭」をやり感謝しています。

景勝の地・耶馬溪となったのは
1.文政元年(1818年)12月5日、文豪頼山陽入溪、「耶馬溪」と名付け、「耶馬溪図巻記」により、全国に紹介された。
2.菊池寛が「恩讐の彼方に」により、青の洞門「禅海物語」を大正8年中央公論1月号に発表した。
3.大正12年3月7日国の名勝地に指定された(史跡名勝天然記念物保存法)
4.昭和25年7月29日、耶馬、日田、彦山国定公園に指定される。

(文責/南)

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