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第594回例会 平成14年2月28日(木
 事務局  - 02/2/28(木) 16:19 -

引用なし
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   第594回例会 平成14年2月28日(木)

○次回例会プログラム    「労働基準行政について」
     中津労働基準監督署 第一課長 清松宏幸氏

◎本日の例会プログラム    夜間例会「ギターの夕べ」

前回(593回例会)の記録 平成14年2月21日(木)

■ビジター
 なし

■出席報告
 会員数    35名
 免除者数    1名
 対象者数    34名
 本日出席者    27名
 欠席者数    7名
 出席率        79.41%

■前々回出席報告の修正
 前々回欠席者    10名
 メイクアップ    6名
 欠 席 者    4名
 修正出席率 70.59%→88.24%

●メイクアップ
 合田、松本、若松(中津中央RC)
 永松(達)(大分東RC)
 江渕、種村(中津RC)

●欠席者
 土居会員、小野会員、白石会員、
 田原会員

会長の時間
久恒眞一 会長
皆さん今日は、恒例になった中津のひなまつりが2月17日より1ヶ月間中津市観光協会の主催で開催されております。開会式には御所車や、人力車ロボットアッシー君、ブラスバンドなどが賑わいに花を添えました。パレードは3月3日にもあるそうです。市内各所に旧家に伝わる江戸中期から昭和初期までの「おひなさま」が飾られます。今年は特に徳川一ツ橋家より中津奥平藩第6代藩主昌暢侯に嫁いだ国子姫持参の有職雛が歴史民族資料館に展示されます。我がクラブの若松会員も昨年に引き続き展示をするそうです。ひなまつりに協賛し飲食店やみやげ品店でも特別メニューを作ったりして結構賑わっています。3月の声も聞こえてきました。春うららな日曜日にでも行ってみられたらどうでしょうか。これで会長の時間を終わります。

幹事報告
二反田新一 幹事
●例会変更
 別府RC 3/8(金)→18:00
      亀の井ホテル「クラブ協議会」
●宇佐2001RC認証状伝達式
      2002/4/7(日) 出欠表を回覧
●「未来(あす)のふるさとづくり」
      道路フォーラム開催について
      道路フォーラム事務局 回覧
●週報受理 佐伯 豊後高田 八代
      各RC
●IM   今度の日曜日
      11:00中津駅南口出発

委員会報告
幹事報告・プログラム委員会 小川委員長
 来週のプログラムは演奏者の都合で、ジャズのビデオ鑑賞に変更します。

ニコニコボックス
ニコニコボックス幹事報告○小川会員 ついでにニコニコします。
○辛嶋会員 予告が私の卓話になっていたので、出席が少ないのではと思っています。寝ても、帰ってもいいです。でも、ためになる話をします。
○池中会員 残念ですが早退します。
○合田会員 金融監督庁のただの検査でなく、摘発がつく検査にあたりまして、精神的苦痛は味わいましたが体重は全然減りませんでした。
○二反田会員 ひな祭り用の竹を切りに行きぎっくり腰になり、まだ良くなりません。早く良くなることを願いまして。
○岩田会員 イオン三光に出店するということで会議が多く先週欠席しましたので。
○江渕会員 昨日初めて、息子と一升瓶を抱えて焼酎を飲みました。

ゲスト卓話
ロータリーの誕生
ロータリー情報委員長 辛嶋 崇
今年は2002年ですから、今から正確には97年前、1905年の2月23日にロータリーは、4人の会員すなわち提唱者である青年弁護士のポール・ハリスと3人の友人たち、石炭商シルベスター・シール、鉱山技師ガスターバス・ローア、仕立屋ハイラム・ショーレーによって誕生しました。場所はアメリカ合衆国のシカゴ市内のユニティ・ビルにあったガスターバス・ローアの事務所(711号室)でした。このユニティ・ビルはシカゴの北ディアボン街127番地に現在でもあるそうです。そしてロータリー創立80周年を記念してシカゴ・ロータリークラブの会員が事務所を修復し、調度品や事務機や、創立当時の記録を備え付けたそうです。
この会合でポール・ハリスは「実業人が友愛の気持ちをもって親しみあい、仕事のうえでの知り合いの輪を広げていくために定期的に集まる会をつくる」というかねてからのアイデアを提案しました。これについて、4人がいろいろ話し合った結果、一つの職業から一人だけを会員として選んで、男性のクラブをつくることになったのです。
このクラブは週に1回、会員の店あるいは事務所を、輪番制で会場として使いながら会合を開くことにしました。輪番制で使うことにしたのは、会員がお互いの仕事についてよく知ることができるようにするためでした。この輪番制にちなんで「ロータリー」と名づけたのです。ロータリー創立にかかわった4人は皆アメリカ人でしたが、それぞれ英国系、ドイツ系、スウェーデン系、そしてアイルランド系の人であり、信仰する宗教もプロテスタント、カトリック、そしてユダヤ教などまちまちでした。すべては人種の坩堝と呼ばれるアメリカ合衆国の所産であり、その意味では、このクラブがやがて国際的な運動になる使命をもっていたともいうべきでしょう。
 印刷業のハリー・ラッグルズが、第5番目の会員として入会したあと、このグループはシカゴ・ロータリークラブとして、正式に発足しました。シカゴ・ロータリークラブの最初の会員名簿には、これは1905年に作成されたものですが、30人の会員が載されてあり、会長がシルベスター・シール、それに不動産業のウィリアム・ジェンセンが幹事、ハリー・ラッグルズが会計ということになっていました。その他、歯科医のウィリアム・R・ネフが会合の「進行係」でした。このときポール・ハリス自身はどんな役職につくことも辞退し、2年後にはじめて会長になったようです。会合の時に皆で歌を歌う習慣を作ったのは、ハリー・ラッグルズであり、これはどこのクラブでもいまだに引き継がれています。
 このような、新しいクラブができたというニュースは急速に広がり、会員数も膨れ上がり、会員の事業所で会合を開くことができないほどになってきました。そこで、毎週の例会は、レストランやホテルで開かれるようになりました。
 ポール・ハリスは、シカゴ・ロータリークラブを、単に会員同士の商売や、事業の便宜をはかるためだけのものにする気持ちはありませんでした。会員同士の親睦を重く見る一方、クラブとして、何か地域社会のために役立つ活動をしたいという希望を、初めからもっていたのです。そして、クラブ創立後2年経った1907年に、クラブ最初の社会奉仕プロジェクトが行われました。公衆便所が一つもなかったシカゴ市の市役所の近くに初めてつくったのです。
 シカゴ・ロータリークラブ創立の3年後の1908年には、2番目のロータリークラブがカリフォルニア州サンフランシスコに結成され、その翌年1909年には、新たに3つのクラブが結成されました。そして1910年には全米のあちこちにクラブができ、クラブ数は16、会員数は1500人にも達しました。
ところで97年経った現在、世界のクラブ数30,149、会員総数1,188,492人で、一クラブ平均39名です。また、日本ではクラブ数2,308、会員数116,801人となっています。こちらの平均は50.6人です。
 日本での1905年は、日露戦争が終結した年、明治38年ですが、ようやく列強に追いつき不平等条約の撤廃から、富国強兵政策に転じ、1894年(明治27年)95年(28年)には日清戦争で勝利しました。しかし、3国干渉により涙を呑んで遼東半島をあきらめた日本は清国からの賠償金をさらに軍備に投入し、日露戦争への道を歩き始めた頃でもあります。1901年に官営八幡製鉄所操業開始。1902年に八甲田山の雪中行軍で青森第8師団第五連隊の遭難。1903年には、日本初のゴルフ場が六甲山上に4ホールの「神戸ゴルフ倶楽部」として誕生しております。そして日露戦争に入ったのが1904年2月10日、夏の8月19日から乃木大将で有名な二〇三高地の攻撃、翌1905年5月27日が東郷元帥で有名な日本海海戦です。圧倒的な海戦の勝利と陸戦の奉天会戦の勝利でようやく9月にポーツマス条約にこぎつけますが、この間有名な竹田出身の広瀬海軍中佐や橘中佐らの壮絶な戦死などあり、多くの兵士を犠牲にしました。また一方、文学では夏目漱石が1905年1月雑誌「ホトトギス」に「我輩は猫である」を発表し、続いて1906年に島崎藤村が「破戒」をその翌年田山花袋が「蒲団」を発表。日本における自然主義文学が確立しました。また日本におけるスポーツ登山の開祖といわれるウォルター・ウェストン卿が1890年頃宣教師として来日し、日本アルプスと自ら名づけた山々に登り、スポーツとしての登山が興り、1905年に「山岳会」が発足、これが1909年現在の「日本山岳会」となります。
 こういった時代背景の頃、ロータリーは着々と発展し、1910年には、初めての大会をシカゴで開き、この大会で16クラブを加盟クラブとする「全米ロータリークラブ連合会」が結成されました。そして、ポール・ハリスがこの連合会の初代会長に選ばれ、事務総長には、1908年にシカゴクラブに入会した、チェスリー・ペリーが就任しました。ペリーは1942年までの32年間事務総長をつとめました。会計にはエルマー・リッチが選ばれましたが、そのあとルファス・チェイピンが1912年から1945年に亡くなるまで在任しました。
 「奉仕の理想」が次第に具体化していったのは、アーサー・フレデリック・シェルドンがシカゴ・ロータリークラブに入会した頃からです。商社の書籍販売予約セールスマンの指導に当たっていたシェルドンは、「ビジネスはすべて、社会に尽くす手段でなければならない」と信じ1910年のロータリー最初の大会で“He Profits Most Who
Service His Fellows Best.“(最もよく仲間に奉仕する者は、最も多く報いられる)
と主張しました。その翌年ポートランドで行われたロータリーの第2回大会で、当時のロータリーの指導的人物の一人である米国ミネソタ州ミネアポリスのフランク・コリンズもまた、他人のために尽くすことの意義と重要性を説き、ロータリークラブは“Service,Not Self”(無私の奉仕)を根本精神として、結成されなければならないと強調しました。この二つの言葉は、後年“He profits Most Who Service Best”(最もよく奉仕する者、最も多く報いられる)および“Service Above Self”(超我の奉仕)とそれぞれ修正されて、ロータリアンの座右の銘となり、ロータリーの誇るスローガンとなっています。しかし、この二つが1950年のデトロイト大会で、公式にロータリーのモットーとして採用されるまでには、40年の歳月を必要としたのです。
 米国以外の国に、ロータリークラブを結成しようという、ポール・ハリスの最初の目標はカナダのマニトバ州ウィ二ぺグに向けられ、紆余曲折の末、ついに1911年ウィ二ぺグ・ロータリークラブが生まれました。このクラブの創立によって、ロータリーは国際的なものになったのです。なお、この年、1911年には現在のロータリアン誌の前身であるザ・ナショナルロータリアン誌が創刊されています。
 その年の後半ポール・ハリスはロンドンにもロータリークラブを結成しょうと、当時ボストンに在住し、英国でタオル製造業を営んでいたハーベイ・ウィーラーと接触をはじめました。その後まもなくウィーラーと前出のアーサー・シェルドンそれにセイアー・スミスの3人の努力で、ロンドンとマンチェスターにロータリークラブが誕生しました。
 また、この年ポール・ハリスはすでにアイルランドにロータリークラブが結成されていることを知ってびっくりしました。しかし、サンフランシスコ・ロータリークラブの元ロータリアン、スチュアート・モローがアイルランドに渡っていてダブリンとベルファストにクラブを結成したことを知り、この謎は解けました。
 ポール・ハリスはアイルランドの内外で、ロータリークラブ結成のため、引き続き活動してくれるように依頼し、スコットランドのグラスゴーとエジンバラなど英国国内に幾つかのロータリークラブが結成されました。
 そして急速に欧州諸国に広がり、1912年ミネソタ州ダルースで開かれたロータリー大会で、ロータリーの正式な名称が「ロータリークラブ国際連合会」となり、さらに1922年には、「国際ロータリー」と改称されました。
 1947年1月27日ポール・ハリスが亡くなる前に書き上げたロータリー創立記念メッセージの中で、彼は次のように書いています。
「1905年には、ロータリーがこのような世界的運動になろうとは予想していなかった。早春のころ、あまり大きくなりそうにない若木を植えるとき、人はいつの日にかそれが亭々たる大木に育つであろうと確信できるであろうか。それは雨と太陽―神の摂理の微笑に待たなければならないのではないか。若葉がはじめて萌え出るのを見るとき、そのときこそ、人は大いなる木陰を夢見ることができるのである。」と。

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第594回例会 平成14年2月28日(木 事務局 02/2/28(木) 16:19

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