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第766回例会 平成17年11月10日(木)
◎本日の例会プログラム
平成RC姉妹交流会報告 姉妹交流委員会
○次回例会プログラム
地区大会報告
前回(765回例会)の記録 平成17年10月27日(木)
■ビジター
中津RC 山本洋一郎君
中津中央RC 東納英一君、福田恵次君
別府東RC 東保房雄君
■出席報告
会 員 数 30名
免除者数 1名
対象者数 29名
本日出席者 18名
欠席者数 11名
出 席 率 62.07%
■前々回出席報告の修正
前々回欠席者 5名
メイクアップ 3名
欠 席 者 2名
修正出席率 82.76% →93.10%
●メイクアップ
池中 (中津RC)
熊谷、田原 (中津中央RC)
●欠席者
松岡、下村
ロータリーソング
手に手つないで
会長の時間
会長 小野 嘉之
10月は米山月間です。米山記念奨学金、日本の大学院や大学に在学している外国人留学生に奨学金を支給する財団法人で、
日本で初めてロータリーを設立した米山梅吉翁の功績を記念して1953年に発足されました。本日は米山記念奨学委員会にお願いしまして、中国の吉林省 全紅女さんに卓話をお願いしております。よろし
くお願いします。
理事候補指名委員の選任について申し上げます。クラブ細則運用内記の第1条、第1節にあります、次々年度の理事候補者指名委員を選出しなければなりません。先日の理事会で承認をいただき、年齢、職業等の調和を考慮し、理事候補者に指名される可能性少ない人と言う事で、永松会員、辛島会員、梶原会員にお願いします。従って指名委員会は会長、次々年度会長とただいまお願いしました3名の計5名となります。宜しく願い致します。指名委員会は11月2週に発表できるように会合を開きます。
11月の第一例会の3日は文化の日で休会です。週末の5日、6日は熊本の水俣での姉妹交流会です。4クラブ姉妹例会及びゴルフも楽しみにしています。土居委員長さん、大変でしょうが宜しくお願いします。
幹事報告
幹事 江渕 一秀
●例会変更 湯布院RC、 大分RC、大分城西RC、 大分南RC、豊前西RC 11/4 移動例会の為、 宇佐八幡RC 11/4 例
会4クラブボウリング大会の為、高田RC
●幹事報告
1.ハリケーンカトリーナ災害救援の義援金 のお礼、国際ロータリーより
2.大貞八幡菊花展11月1日より11月10日 まで薦神社より
3.第27回青少年指導者養成研修会の本
4.国際ロータリー2004年国際大会の記録誌
5.クラブ支援ロータリー米山奨学金制度の ご案内〜現役奨学生の期間延長プログラ ム
6.来週11/3は法定休日の為、例会はありま せん。
7.中津沖代ライオンズクラブより25周年式 典のお礼が来ています。
8.2720地区米山奨学会より、スマイル特別 寄付金のお願い
委員会報告
二反田プログラム委員長
11月プログラムをお配りしました。11/3は法定休会ですので間違えない様お願いします。
ニコニコボックス
担当 親睦委員会
出納会員
米山記念奨学生の全紅女さん、本日はありがとうございます。そして別府東RCの東保さん、委員のメンバーということ
でエスコートして下さいましてありがとうございました。
小野会長
全紅女さん、本日は有難うございます。私が別府にいた時、東保さんの親戚の方に大変お世話になりました。
田原会員
東保さんようこそいらっしゃいました。私がソウルに行く時、飛行機の中で隣に座っていたのが東保さんでした。これからもよろしくお願いします。
江渕幹事
全さん、本日は卓話に来ていただき、ありがとうございます。本日のニコニコと皆さんのスマイルとを合わせて米山記念
奨学会に寄付したいと思います。
若松会員
我が家の女性は母の代より花柳流の日本舞踊を修め、教室を開いてきました。日本舞踊には名取・師範と2つのランクがあ
り、18才から受験できます。但し、自宅が日舞教室の子弟は15才より受験できる特例があり、末の娘、中学3年の日南子が昨日受験し、合格する事ができました。今後の成長を楽しみにニコニコします。
ゲスト卓話
米山記念奨学生 全紅女氏
●プロフィール
1970年3月12日生 中国 吉林省出身
現在別府大学文学研究科 修士課程1年在籍
●日本留学後の予定
別府大学卒業後、大学院へ進学し、日本文学研究を続け、将来は中国で日本語の先生になって日本語と日本文学を中国の学生に教えようと思っています。
パンダの国から桜の国へ
皆さん、こんにちは。私は2002年4月8日、中国の吉林省龍井市から参りました全紅女と申します。今、別府大学大学院文学研究科修士1年生です。専攻は日本近代文学、
「明治の文豪」と言われている夏目漱石の『こころ』について研究しております。
夏目漱石は『こころ』の広告文に「人間のこころを研究する者はこの小説を読め」と書いたので100年前、要するに明治時代の日本人はどんな生活をしたか、どんな恋をして何を考えていたか、と興味を持ち、大学の時から『こころ』について研究し始めました。皆さんはご存知と思いますが、『こころ』は悲しい物語です。夏目漱石については後で機会があればまだ皆さんとお話をしたいと思っております。
今日、私はこの卓話の時間を頂いてパンダの国から桜の国へ参りました切っ掛けから始め、いろいろお話をしたいと思っております。
人々は留学生といったら、まず20代の人を思い浮かべます。私のように結婚して子供までいる母が留学生として勉強している事は珍しいでしょう。私は大きな決心の挙句、この「留学」という道を選択しました。
私が生まれたのは中国の吉林省龍井市という、気候は、春は乾燥し、夏は暑く雨が多い、秋は涼しく、冬は寒くて長いところでした。昔、井の中から龍が出て来て空に飛んでいったという伝説があって町の名前を龍井市と呼ばれるようになったそうです。吉林省の省都は「長春」。昔は中国の東北一帯の吉林省、遼寧省、黒竜江省などの東北三省を日本人は「満州」と呼びました。だから、吉林省というと知らない人が多いですが、昔の「満州」といったら殆どの日本人は知っている事と思います。
−中略−
私は1970年、文化大革命の時代に生まれ、名前を紅女と付けられました。「赤い女」という意味です。その時代に生まれた女の子には「紅」、「善」、「英」など、男の子には「文」、「兵」、「革」などの漢字を入れた名前をよく付けられました。両親は私に赤い女という名前を付けて中国の国旗の赤い色のように「赤い心」を持って育って欲しかったのです。当時には「赤い心」という言葉が流行しました。意味は「全心全意人民のために献身する」、「苦難には人の前に、享受には人の後ろに」という共産党の宣誓文を取り上げて作った言葉です。両親は共産党員として恥ずかしくない人でした。「優秀共産党員」、「先進労働者」など数次賞を貰いました。そして、人々から「法律制度が必要としない人」と言われました。このような両親の背中を見て育てられた私たち3人の兄弟は人の思い遣り心を身に付けました。
−中略−
「大きなチャンスは一生のうちに三度めぐってくる」と言われるように私は思いもしなかった留学という道を歩く機会がきました。2000年の春、大学の先生から「日本に留学する思いがある?」と聞かれた時、私はあまりにも突然言われまして一瞬答えられませんでした。その時、もう結婚して子供もいたし、仕事も持っていたので、20代の他の人のようにすぐ留学という道を決められませんでした。そして、毛沢東時代に生まれ、革命教育を受けて育った私は日本人に対して先入観を持っていました。小学校の時、学生義務鑑賞の映画の中で見た、悪い事をしている日本軍人に対して「鬼」と思いました。また、怖い、怖いと言いながら見た映画は「731部隊」という映画でした。その映画の中の日本軍人は「鬼の鬼」だと思いました。そして日本人の女性は食事をする時、ご主人が食べ終わるまでずっと膝を曲げて座って待っているのだと聞きました。このように、日本軍人は「鬼」である、日本は女性差別社会である、という先入観を持っていた私でした。しかし、私は小さい時から日本に特別な興味を持っていました。それは私に日本に行きたい夢を持たせ、また私が日本留学を選んだ面白い背景となります。幼い頃、母は私たち3人の兄弟によくこう言いました。「ちゃんと勉強すれば東京大学に行けるんだよ」と。その時、私は東京大学は日本という国にある学校だと知っているだけで、一体どんな学校か知らなかったし、さらに母がどうして中国の大学ではない日本大学のことを言っているのかが分かりませんでした。私のクラスメートに王燕という人がいて、日本人と結婚した彼女のおばさんが親戚を訪ねに久しぶりに帰ってきました。ある日、王燕は学校へ魚の形の鉛筆削りを持って来て皆に見せびらかしました。私は彼女が穿いている桜の花が描いてあるピンク色のビニールサンダルよりも、その魚の形の鉛筆削りのほうがもっとうらやましく感じました。当時、中国の中、小都市の生活はまだ豊かになっていませんでしたので今のようないろいろな形の鉛筆削りはその時ありませんでした。私の兄弟が使っている鉛筆は父が小さなナイフで毎日心を込めて一つ一つ削ってくれました。そんな時代に王燕のおばさんが日本から持ってきた鉛筆削りが幼い皆の心に珍しい物に見えるのは当たり前の事でした。「私にもそんな鉛筆削りがあれば自分で鉛筆を削れるし、父が毎日鉛筆を削るのに指が黒くならないでしょう」と私は思いました。そして、私は母が言っている通り、ちゃんと勉強して日本に行って東京大学に入学して鉛筆削りを買って来ようと思いました。今その事を思い出す度に私は一人で笑ってしまいます。−中略− 2002年4月8日、私は夢、期待、不安をいっぱい抱いて桜の国―日本、別府にやってきました。私が一番最初に出会った日本人は別府大学別科の先生方でした。「あ、い、う、え、お」から始め、まるでお母さんのように優しく日本語を教えてくれました。中国の映画で見た「鬼」の軍人とはイメージが全然違い、むしろ、その親切さには暖かい情を感じました。別科の先生の顔は「鬼」の顔ではなく、皆綺麗な優しい顔でした。母である私が自分たちと気が合う、と言って中国の家庭、子供の教育について聞いたり、日本の家庭について話したりし、友達のように心を広げてくれました。お陰さまで私は丁寧な日本語を覚えて1年後、別府大学国文学科3年に編入し、予定通り、日本文学を学ぶ事ができました。私は勉強しながら日本社会を知る為にいろいろ活動に参加して沢山の人と知り合いになりました。そして、私は沢山の親切な日本人と出会いました。母をしながら勉強している私を大変だと言って野菜などをくれたり、日本の伝統的服装―着物をくれたり、着方を教えてくれたり、いろいろ気遣いしてくれた近所の人たち、その優しさは本当に忘れられません。また、「中国の発展は今からだ。応援しますから頑張って下さい。」と励ましてくれた沢山の日本人と出会いました。中国の諺に「一言が千両より重い」というのがあります。両は昔の中国のお金の単位で、一言を千両に喩え、その大切さを表した言葉です。私は日本に来てこのような千両より貴重な一言を沢山聞き、それは私の人生の忘れられない思い出になると思います。日本人との交流の中で、私は現在の日本人は「鬼」の軍隊ではなく、親切な人だと感じました。そして、ご主人の食事が終わるのを待っていたのは昔の事で今の日本は女性も能力さえあれば男性と同じようにいろんな領域で活動できる事が分かりました。−中略− 小さい時、母がどうして私たち兄弟に東京大学の事を言ったかが今になって理解できるようになりました。80年代のその時、母は先進国日本に行って奇跡的に経済発展をしてきた日本社会を学んで欲しかったのです。母の真意が分かりました。私が日本に来て習った事は私の人生の貴重な1ページに残ると思います。 私は将来日本語の先生になりたいです。日本語の教師になって私が日本に来て体験した事を中国の学生に教えたいです。そして、ただ言葉の通訳だけではなく、また単に言葉の教えだけではなく、この仕事を通じて伝統の日本文化、日本人の「心」の美意識を教える事によって日本という社会を教えてあげたいです。そのために、ボランティアにも参加し、日本文化など、日本の事を習わなければなりません。私は自分の目標を実現するために、一つ一つ努力して行こうと思っています。今、人口14億の市場を持っている中国の存在はアジアだけでなく、全世界においても非常に注目されています。「中国が目覚めるとき、世界は震撼する」とナポレオンは語ったと言われています。中国は戦後起きたいろいろな問題を克服しながら目標を立て、その目標は世界の超大国として、強大で経済的に富める国家となる事です。中国の経済を発展させるためには日本という国が大変重要だと思います。また、日本もこれから先、超大国―中国と接していく中で主導権を握らなければならないと思っています。そして、私は中国と日本の間に立って「言葉と心」を繋げていくのが私たち「留学生の役割」だと思います。私は中国留学生として、そして米山奨学生として是非この「役割」をしたいです。人生の先輩の皆さん、私は米山奨学生になって皆さんと出会って大変幸せです。ぜひ私を成長させて下さい。御清聴、どうもありがとうございました。
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